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バーチャル・ミュージアム案内



開館30周年記念 令和4年度(2022年度)春季特別展
出口座と阪本一房(いっぽう) -現代人形劇の継承と発展-


看板画像

 出口座は阪本一房(吹田市神境町出身)により創設され、1975年から2000年まで吹田市出口町にあった人形劇団です。25年間吹田市を拠点に関西の人形劇文化の一翼を担いました。
 出口座の人形劇の演目や人形造形は阪本一房の人形劇における理念、理想とともに1920年代の大正新興美術運動の流れを汲む「人形座」やその分流である阪本自身が戦後中心メンバーとなった「大阪人形座」のエッセンスを受け継ぎ、日本における現代人形劇史創生期の息吹を伝える貴重な存在でした。
 阪本は北摂地区の民話を題材としたオリジナル作品を創作し、人形劇にとどまらず、街頭紙芝居の経験を活かした紙芝居の展開をし、その作品は、かるたなどの他のメディアにも再創作されていきました。また、関西一円の公民館や市民講座において紙芝居を指導するなど児童文化の普及にも寄与しました。
 展示では世界の糸あやつり人形や阪本一房と出口座の活動と事績に迫ります。

〈凡例〉
このページは、令和4年(2022年)4月23日から同年6月5日まで開催する開館30周年記念 令和4年度(2022年度)春季特別展「出口座と阪本一房 -現代人形劇の継承と発展-」のバーチャル特別展示である。
〇当バーチャル展示室には展示資料のすべてを掲載しているわけではない。
 
  • ― 目 次 ―





第1章 世界のあやつり人形

 糸あやつり人形は、上方より吊り下げた人形に糸をつけ、糸さばきによって操るもので世界の各地にみられる。日本では糸あやつりは少数派といえるが、ヨーロッパは「マリオネット」という言葉が「糸あやつり」だけでなく人形劇全般を指すほどに主流で、ヨーロッパ圏では各国で特徴的なマリオネットを見ることができ、アジアではインド、スリランカ、ミャンマー、中国などで広く演じられている。
 人形を操る糸は数本から数十本とさまざまで、糸が増えることでより繊細な動きが可能となるが、当然その操作は複雑となる。また、糸を吊って操作するコントローラー(手板)にもさまざまなものがある。

(1)ヨーロッパの糸あやつり人形

 ヨーロッパでは劇場芸術としても発展した。マリオネットは中世に起源を持ち、古くは棒や針金で操作されたが、18~19世紀に糸で操る工夫がなされた。糸の数は数本から数十本と多様な形式がみられる。
Pupi シシリー・イタリア 1950年代 人形劇の図書館蔵
 シシリー島の伝統あやつり人形。頭部を鉄線で吊り下げ、両手を糸で操る古い型でヨーロッパの最初のマリオネットといわれる。現在もシシリー島で上演されており、イタリアはマリオネットの故郷といわれている。シシリー島の人形劇は第1回ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」にも採択されている。
アフリカンダンサー アルブレヒト・ローゼル作 ドイツ 1970年代 人形劇の図書館蔵
 ローゼルはドイツが誇る世界で一番有名なマリオネットの名手。彫刻を学び、それを動かして表現するマリオネットを創作。有名な「道化グスタフ」を生みだし、続いて様々な人形が増え、その人形たちによる「グスタフとそのアンサンブル」が結成され、世界を魅了することになった。アフリカンダンサーはその中のひとつの登場人物である。

(2)アジアの糸あやつり人形

 アジアでも糸あやつり人形は古くから盛んである。中国では11世紀の宋の時代から懸絲(けんし)傀儡(かいらい)や提線(ていせん)傀儡(かいらい)といわれた。現在は提綫(ていせん)木偶戯(でくぎ)といい、福建省の泉州周辺がよく知られている。ほかにもインド、スリランカ、ミャンマー、タイなどでも行われていて、それぞれ個性的な人形のかたちを持っている。アジアにおいては、人形芝居は単なる娯楽ではなく、神話や伝説を視覚化した戯曲で神々の世界を語る、宗教儀礼として演じられることも多い。
ヨクテー・ポエ ミャンマー 1960年代 人形劇の図書館蔵
 ミャンマーの伝統的糸あやつり人形は、「ヨクテー・ポエ」といわれ、18~19世紀にインドから伝えられたとされる。「ヨクテー」は人形、「ポエ」は祭りを意味する。
 人形は基本28種からなり、祭礼の場で仏陀の前世を語った『ジャータカ』などが伝統音楽の演奏と歌に合わせて演じられ、神話、伝説が語られるが、その舞台には、より演劇的な表現に魅力が感じられ、楽しめる。
ヤクシャガーナ操り人形 インド 1990年代 人形劇の図書館蔵
 インド南部の古いカンナダ語文化圏の人形劇。ヤクシャガーナは南インドのカルナータカ州に伝わる伝統的な歌舞劇であるが、糸あやつり人形としても演じられ、人形の装束や音楽も共通で、少数言語のカンナダ語文化圏の17世紀以来の口伝による物語が伝承されてきた。ヤクシャは精霊、ガーナはメロディを意味している。

(3)日本の糸あやつり人形

 多様な種類がある日本の伝統人形芝居の中では糸あやつりは少数派で、江戸時代には「南京操り」とも呼ばれていた。「南京」とは中国伝来というだけでなく玩具的な小さな可愛さも意味しているといわれている。江戸後期の糸あやつり人形座は、江戸では山本三之助(輔)一座などが、大坂では幽蘭座などがあった。山陽・山陰などでは民俗芸能としての糸あやつりが現在も複数の県にまたがり伝承され、なかでも島根県益田の糸あやつりなどは江戸期のかたちを残しているといわれている。しかし、関東以北へは糸あやつりは伝承されず、わずかに東京に残るのみである。

男 幽蘭座 江戸後期 人形劇の図書館蔵
 眉や目、口にからくりがみられ、構造的にも細工の上でも人形製作の成熟した作者によるものと思われる。
幽蘭座は江戸時代後期から大阪にあったあやつり人形座だが、活動の実態はほとんど知られていない。その活動は越中辺りから中国地方まで広範囲に影響をもたらせているが、その後衰退し、大正3年頃まで公演活動が行われていたことがわかっている。


お女中 竹田喜之助作 1970年代 人形劇の図書館蔵
 竹田喜之助(岡本隆郎)は大正12年(1923)岡山県生まれ、東大で航空工学を学び、昭和25年(1950)3月結城孫太郎の一座に入り、昭和30年(1955)4月、一座は竹田人形座となって、竹田喜之助を名乗る。竹田人形座の人形を一手に担い、人形のからくり構造に画期的な工夫を凝らした魅力的な人形を創作した。喜之助人形と呼ばれた人形は多くのファンを生んだが、昭和54年(1979)56歳の時、車に巻き込まれる不慮の交通事故で急逝した。


上方子ども絵本『絵本菊重ね』 北尾雪坑斎 江戸中期 人形劇の図書館蔵
 絵師北尾雪坑斎の描いた、宝暦頃(1751-1763)の上方絵本で、さまざまな人形と遊ぶ人形尽くしを描き、江戸時代唯一の人形図譜とされる。大正時代には、稀覯書として復刻版が出ているが、原本の現存は数冊といわれる稀覯本である。


怪談早替り浄瑠璃 糸あやつり人形 山本三之輔 浮世絵 国政画 明治初期 人形劇の図書館蔵
 江戸時代後期に糸あやつりを演じていた江戸の山本三之輔一座の興行ビラだが、山本三之輔は明治20年代まで東京で糸あやつり人形師として高名を博していたが、後進の9代結城孫三郎に押されてか衰退した。




第2章 英国ダーク人形座-現代人形劇誕生前夜-

 明治27年(1894)に英国のダーク人形座が初来日し、5~7月にかけて東京、横浜で日本初の西洋の人形劇が興行された。明治30年(1897)に再来日、数年滞在し、全国各地で公演し、骸骨踊りが人気を博した。その後興行師松根末吉が人形道具一式を引き取り、ダ-クの弟子とともに松根が死去する大正2年(1913)頃まで浅草花やしきの常設人形劇場で「西洋あやつり人形」として演じられた。さらに大正11年(1922)松島亀之助と松根義雄の兄弟が新たに人形を作って再開、昭和15年(1940)頃まで上演を続けた。
     
西洋あやつり人形 浅草公園・花やしき チラシ 4色合羽刷 明治後期 人形劇の図書館蔵
 人形劇団ダーク座の呼び物だった骸骨がバラバラになって踊る「骸骨踊り」や竹馬に乗りながら酒を飲んでよろめく「スティルトダンス」、「化物旅館」、老婆のスカートの中から子どもがたくさん出てくる「ジゴーシュおばさん」、「フラワーダンス」、「棒の足芸」などの絵が描かれている。

市村座開場浄瑠璃狂言 香朝樓(こうちょうろう)(3代歌川国貞)筆 明治26(1893)年 浮世絵3枚組 人形劇の図書館蔵
 寛永11年(1634)、日本橋に創建した江戸三座のひとつである市村座が、明治25年(1892)、下谷二長町(台東一丁目)に移転し、その開場狂言として、5代目尾上菊五郎がダークの糸あやつりを模した新作歌舞伎を演じた。その際に摺られた浮世絵である。ダークの公演は歌舞伎に採り入れるほどに反響の大きかったことがうかがえる。



第3章 現代人形劇の誕生-人形座-

 1920年頃、ヨーロッパで起きた新しい芸術運動の高まりは人形劇界にも波及し、人形劇を現代芸術の視点で創造しようという新しい人形劇の運動がヨーロッパ各地におこった。こうしたヨーロッパの動きは日本でも当時のモダニズム、新興美術運動と結びつき、演劇、美術、文学を横断するかたちで、新感覚の表現芸術として新しい舞台表現である西洋のマリオネットを取り入れ、大正期後半に伝統的な人形芝居とは異なる新しい人形劇として誕生することになる。

人形座

 日本の現代人形劇の先駆けとなったのが人形座である。その嚆矢は大正12年(1923)11月23日から3日間、東京麻布の遠山邸試演会といわれるもので、伊藤熹朔、千田是也(伊藤圀夫)を中心に遠山静雄らの若き芸術家たちが参加し、象徴主義の戯曲メーテルリンクの「アグラヴェーヌとセリセット」を上演した。新しい舞台芸術として注目された。当時のグラフ雑誌がこぞって取り上げ、新興人形劇の展開が拡大していくことになる。
『国際写真情報』3巻1号 大正13年(1924)1月 国際情報社 人形劇の図書館蔵
新しいあやつり芝居として面白い試みであり、前途を期待するとある。

第1回演出

 大正15年(1926)伊藤熹朔を代表として正式に「人形座」が設立された。9月24~26日に築地小劇場でプロレタリア演劇ともいえるウイット・フオーゲルの「誰が一番馬鹿だ」を上演したところ、再び話題となり、雑誌、版画にも取り上げられた。
『グラフィック』1巻8号 大正15年(1926)11月 人形劇の図書館蔵
 劇壇の新人たちに依って上演さる「誰が一番馬鹿だ」人形座第一回公演、と題され、「誰が一番馬鹿だ」公演舞台写真を掲載。新しい試みとして脚本と共に高い評価を与えて紹介し、他の若き芸術家たちに大きな刺激となった。
『国際写真情報』5巻9号 大正15年(1926)9月 人形劇の図書館蔵
 人形座第一回公演予告となっているが、公演前に出る雑誌によって大きな宣伝効果となった。グロテスクな表情に製作された人形を当時としては貴重な色刷りの写真で掲載している。

臨時公演

 第二回公演は、昭和元年(1926)12月26日に旗揚げ公演のプロレタリア文学志向に変わり、小山内薫作「三つの願い」などを上演予定としていたが、大正天皇の崩御のために延期となった。大阪、神戸の松竹座では、昭和2年(1927)2月に公演、東京では臨時公演と銘打って昭和2年(1927)7月2日に朝日新聞講堂で上演された。新たに大衆文化としての人形劇の方向性をもつ企画となった。
人形座臨時公演ポスター 昭和2年(1927)7月 人形劇の図書館蔵
7月2日の朝日新聞講堂での臨時公演ポスター。演目は小山内薫作の「三つの願い」「人形」河村邦成構想「ヂュヂュー」であった。芸術至上から子どもたちも観客にという意図が出てきている。

第三回公演

 昭和2年(1927)12月24,25日に、築地小劇場において漫画家岡本一平(芸術家岡本太郎の父)作「弥次喜多再興」のうち「梯子(はしご)と盥(たらい)」が演じられた。マリオネットの操作技術のむずかしさからか、片手遣い人形(ギニョール)で行われた。人形座は千田是也の留学などもあり、この第三回公演をもって活動を終了することになる。
人形座第三回公演チラシ(三ツ折) 人形劇の図書館蔵
 第三回公演のチラシ。会員組織で公演することが告知されている。また、12月10日から16日まで新宿の紀伊国屋での人形座展覧会の開催案内もみえる。



第4章 大阪における現代人形劇


トンボ座

 昭和5年(1930)大阪市都島区東野田で書店経営をしていた国田弥之輔や彫刻家浅野孟府、人形座にも参加していた音楽家小代義雄、孟府の弟子で画家の柏尾喜八郎、伊藤庫次らにより、国田弥之輔の子どもの施設『トンボの家』において誕生した。浅野孟府が人形を製作し、築地小劇場舞台美術家吉田謙吉が舞台装置を手がけて小山内薫原作の「三つの願い」をギニョールで上演した。昭和6年(1931)9月まで公演をしている。
「トンボ座」の人形劇を見る子どもたち(堀田穣氏蔵)

大阪人形座

 トンボ座とほぼ同じメンバーが継承し、昭和10年(1935)1月に結成された。子どもたちに芸術的環境を、子どものための人形劇の主旨で演劇の多田俊平(山口外男)、小林敏夫、浅野孟府、小代義雄、孟府の弟子であった利光貞三、柏尾喜八郎ら、彫刻家、美術家、音楽家、俳優による旗揚げは当時関係者の注目を集めた。当初は「人形座」と称していたが、「人形座」の千田是也から「人形座」と区別するため大阪をつけた方がいいといわれ、のちに小代が「大阪人形座」に改名した。
 昭和10年(1935)1月4日~10日、小山内薫「三つの願い」を三越公演場で上演し、以後、大毎講堂や船場小学校をはじめ昭和11年(1936)には、地方の小学校を巡って上演するなど昭和15年(1940)5月までに24回の公演を行ったが、戦争の激化にともなう左翼勢力の取り締まり強化により同年8月30日に解散となった。
大阪人形座緞帳
 昭和10年(1935)3月1~3日、多田俊平の「文福茶釜」を上演した際、三越劇場より緞帳のビロード生地を贈られ、小代義雄が人形の図案、のち東宝映画「ゴジラ」の怪獣を造形した利光貞三が「MARIONETTE THEATER」のデザイン文字をもとに刺繍をほどこし豪華に仕上げた。燃えるような真紅の生地だったという。戦後、小代から阪本一房に手渡され、1980年代まで「出口座」の壁面に飾られていた。



第5章 阪本一房と大阪人形座

 のち出口座を主宰する阪本一房は、本名一房(かずふさ)で、大正8年(1919)吹田町字神境町(現吹田市南高浜町)で生まれた。
 小学校時代に詩や作文にめざめ、童謡作家森たかみちにあこがれる。戦中に軍需工場で柏木茂弥と出会い、演劇、文学、美術の知識を学んだ。戦後は新劇の自立劇団「感動派」で活動を行うが、大阪人形座の再建に取り掛かっていた柏木茂弥から大阪人形座に誘われ、昭和23年(1948)1月10日、11名の同人で大阪人形座を再建する。同年8月24日、「三つの願い」を朝日新聞講堂で上演後、経済的な問題により活動停止。昭和27年(1952)5月~12月25日に一時活動を再開するが、経済的理由で再び解散。さらに昭和28年(1953)1月15日には、大阪人形座研究所を創立し、生活の手段を街頭紙芝居において人形劇芸術を研究、追究することにした。座員相互の考えに齟齬が生じ、昭和31年(1956)7月13日の上演後、活動を打ち切ることになる。しかし、阪本はその後も大阪人形座の継続を考えていた。

「三つの願い」マリオネット人形

 「三つの願い」は人形座、大阪人形座でも劇団として最初に上演した重要な演目である。のち出口座でも上演され、3つの劇団の継続性を象徴する作品である。昭和52年(1977)の出口座初演では「マルチン」役に人形座からの小代義雄、「マルガレット」役に関西芸術座の新屋英子氏、仙女に大阪人形座座員の木村満子氏を迎え、公演用テープが録音された。
 人形はいずれも昭和24年(1949)柏尾喜八郎が製作したものである。

カルパス
マルチン
マルガレット



第6章 出口座

 阪本一房は昭和50年(1975)9月に、昭和49年(1974)9月から活動していた「吹田人形劇研究会(吹人研)」のメンバーとともに吹田市出口町13-7に人形劇団「人形芝居・出口座」を旗揚げした。出口座は人形芝居や紙芝居の創作、上演を通じ、地域の児童文化を支える役割を担うとともに、大正期以来の人形座・大阪人形座の精神を継承する存在として、阪本が死去する1年前の平成12年(2000)まで活動した。
                      

出口座と六雅荘 昭和53年(1978)木村章人氏撮影
 出口座は出口町の丘の上の細い路地の奥にあった。アサヒビールの独身寮(管理人であった童話作家森たかみちが、のち「六雅荘」と命名)と未使用の食堂を改装したマリオネット専門の芝居小屋である。看板文字は「勘亭流で」と阪本が決めた。


人形を操作する阪本一房

民話人形芝居
 阪本一房は、昭和53年(1978)から昭和61年(1986)にかけて吹田を中心とする地元の民話を題材にした糸あやつり人形芝居を創作した。「雪むし」(初演時は「雪だるま」)、「俵薬師」、「羅城門の鬼」、「かまいたち」、「血の池」、「浜の真砂」、「二魂坊」の7作は、出口座を特徴付けるオリジナル演目となった。

①雪虫(初演時は雪だるま)昭和53年(1978)初演

 吹田郷土民話「つなぬき祭り」を題材に、阪本が長年温めてきた作品である。

あらすじ
 雪国でない関西地方 北摂の地にも昔はよく雪がふり、子どもたちは雪だるまを作ったりして遊びました。小さな山あいのへんぴな中ン谷村(今は千里ニュータウン)での話なのです。幕府の役人は百姓たちから年貢をとるために田圃の広さや米の出来高を検(しら)べにきたのです。百姓の藤蔵は不正の計り方をする役人に抵抗してその検地をする間竿(けんざお)を真二つに折ってしまいました。怒った役人はその場で藤蔵一家を打首にしました。その血が雪だるまにとびちりました。翌日、藤蔵の子松吉の血を消しながら子どもたちは雪だるまを作ります。雪だるまの顔は泣いているようです。(機関紙『出口座』31号より)

松吉
うめ
きぬ
竹三
弁慶

人形はいずれも阪本一房による製作



②俵薬師 昭和54年(1979)初演

 うそつきが長者やあんまを騙して富を得る昔話「俵薬師」をモチーフとする。国際人形劇連盟(ウニマ)創立50周年記念として開催されたアジア・太平洋国際人形劇祭典において「俵薬師」で国際審査委員団賞を受賞した。

あらすじ
 茂平は希代のうそつきである。皆、うそつき茂平にだまされまいと気イつけながら、ついころっとだまされてしまう。
 今日も今日とて茂平の奴、旦那の使いに行ったのはよいが、途中でぐっすり寝てしもて、こらえらいこっちゃと思案なげ首。持ち前のうそをついてるうちに、とうとう旦那は茂平の道案内で竜宮城へといくことになる。欲のためならおのれの身がどないなろうと頓着なし。たとえ火の中水の中、旦那も性根むき出しなら小心者の茂平とて、己の身可愛さに口から出まかせのうそついてほんで結構、世渡りしとりますわな。(機関紙『出口座』43号より)

茂平
旦那
あんま
ふく

人形はいずれも阪本一房による製作



③羅城門の鬼 昭和55年(1980)初演

 茨木市にまつわる「茨木童子」と謡曲『羅生門』での渡辺の綱の鬼退治の説話を素材としている。前年作られた一人芝居「茨木 里の鬼」をベースに妖気漂う本格的な人形芝居とした。

あらすじ
 茨木の百姓、弥作に男の子が生まれた。気の優しい力持ちの童子になりましたが、おでこに角が出てきました。村の人達は「鬼の子」と気味悪がり弥作は仕方なく童子を山へ捨ててしまう。童子はお腹を空かせて都の羅城門へたどり着きました。羅城門には女の骸(むくろ)から髪の毛を抜いて売り、生きている老婆が住んでいました。お婆は童子に食べ物を分けてやり、一緒に暮らし始めました。しかし、羅城門に「鬼」がすんでいると聞きつけた公家は退治するよう渡辺の綱に命じ、お婆は腕を斬られてしまいます。童子は怒り、腕を取り戻しに行ったのです。

童子
渡辺の綱
老婆
公家

人形はいずれも阪本一房による製作



④血の池 昭和57年(1982)初演

 吹田村に伝わる血の池、泪の池にまつわる大日坊能忍と悪七兵衛景清の悲劇を作品とした。

あらすじ
 昔、吹田村の川面に小さな池があり、その側には大日坊の祠があった。夜、戸を叩く音に戸をあけると源平の戦いに敗れて逃げ落ちてきた甥の平景清が立っていた。疲労と空腹の景清に大日坊は祠で寝かし、家の門に「寝てる間にそおっと温麦を打つのや」といった。景清は「甥の首を打つ」と勘違いし、大日坊の首を刎ねてしまう。血の付いた刀を池で洗うと池の水は真っ赤に染まった。景清はあやまりに気づき、池に来ては涙を流して大日坊にわびていた。血の池は泪の池ともいうようになった。

景清
大日坊能忍
お婆
村の男

人形はいずれも阪本一房による製作





第7章 阪本一房の業績


 阪本の人形芝居、紙芝居作品に深く関わるのは、郷土民話である。昭和41年(1966)に地元神境町自治会の役員となった阪本は自治会月報に郷土の歴史を掲載することを思いつき、吹田郷土民話を掘り起こすことになる。
 『自治会報』第2号を皮切りに「ききがき 神境町譚」を連載し、機関紙『出口座』にも民話を書いている。これらがきっかけとなり、絵本の出版、郷土民話人形芝居の脚本、市報への連載、民話かるたの製作、郷土民話紙芝居製作と多様なメディアへと再創作されていった。
吹田郷土民話紙芝居「血の池」 作:阪本一房 画:小森時次郎 昭和60年(1985)製作 (小森泉氏蔵)
 戦後の街頭紙芝居を思わせる紙芝居である。絵を描いた小森時次郎は阪本と戦後まもなく知り合い、紙芝居の絵を描いたり、阪本に請われて『紙芝居新聞』の編集、発行を引き受けていた。その後、全国で手作り紙芝が盛んとなり、阪本に勧められ、阪本の吹田民話紙芝居の絵を描いた。「血の池」は、吹田市文化会館(メイシアター)のオープン時に阪本が自ら演じた。
すいた郷土民話かるた 文・阪本一房 絵・すいたきりえグループ 解説文・枡田健治 発行・吹田郷土民話かるた普及会 昭和57年(1982)
 市報に「ききがき吹田の民話」を連載中に、新聞で郷土かるた製作の記事をみた阪本が吹田でも製作した。読み札は阪本の作で、吹田市教育研究所の加賀眞砂子氏や東谷勝司氏らと最終文案をまとめた。絵はすいたきりえグループの手による。

第8章 児童文化の発展と普及へ

 阪本は人形劇が地域の生活に根ざした教養をもたらすとする柏尾喜八郎、浅野孟府、小代義雄といった先駆者たちから受け継いだ理念をもとに、地元吹田市文化会館(メイシアター)の小ホールを人形劇の拠点となるよう、設計段階から積極的に助言、協力した。昭和60年(1985)のこけら落としには阪本とともに協力してきた日本人形劇人協会関西ブロックの企画で人形劇を9日間公演し、昭和62年(1987)からは関西の専門人形劇団が上演する「人形劇カーニバル」が毎月(後隔月)定期開催され、平成2年(1990)より全国に先駆け、アマチュア人形劇コンクール(「吹田人形劇コンクール」)が隔年で開催された。
 また、昭和59年(1984)1月、吹田市中央公民館での紙芝居講座を皮切りに関西一円の図書館、公民館や市民講座において紙芝居づくりや公演の指導を行い、数多くの紙芝居サークルを誕生させた。阪本に指導を受け、影響を受けた人形劇人や紙芝居人は数多く、現在もそれぞれに活動を続けている。
87メイシアター人形劇カーニバル 人形芝居出口座チラシ
 7月4日出演の「アラジンと魔法のランプ」のチラシ。ギニョールで演じられた。
『元吉じいさんのはらきり話』原作:阪本一房 脚色・画:中村明子 昭和60年(1985)製作 吹田紙芝居「拍子木」蔵
 
『きじなわて』原作:阪本一房 脚色:三保谷弓美 画:ふるた加代 平成3年(1991)製作 吹田紙芝居「拍子木」蔵
 昭和59年(1984)の吹田市中央公民館での阪本による紙芝居講座の受講生が中心となって吹田紙芝居「拍子木」が結成され、『ききがき吹田の民話』の中から民話紙芝居が誕生し、メイシアターオープン記念行事『紙芝居・吹田昔ばなし』で「吹田郷土民話紙芝居」を上演した。その後も平成3年(1991)から始まる箕面紙芝居コンクールや全国紙芝居まつりなどに参加出演している。





バーチャル・イベント

オンライン講演会

現代人形劇の継承と発展
潟見英明(人形劇トロッコ主宰・人形劇の図書館館長)

 大正時代末期に西洋から日本に伝わったマリオネットによる現代人形劇の誕生の経緯とその精神を引き継いだ
阪本一房さんが主宰した人形芝居「出口座」について紹介します。

吹田の人形芝居・出口座が残した小さくて大きな文化財
菅原慶乃氏(関西大学 教授)

1975年吹田市出口町で旗揚げされた阪本一房主宰の人形芝居「出口座」について
その史的位置付けや残された人形資料、公演音源、映像資料、文字・図像資料について解説します。

詳説 出口座と阪本一房展【吹田市立博物館 歴史講座 藤井裕之】

令和4年度(2022年度)春季特別展「出口座と阪本一房-現代人形劇の継承と発展-」に関して、展示構成と展示資料を解説します。

博物館講演会「昭和初めの洋風人形劇を語る-孟府と一房 」浅野詠子(ジャーナリスト)

1975年吹田市出口町で旗揚げされた「人形芝居出口座」。その主宰であった阪本一房に最も影響を与えたひとりが
大正期新興美術を担った彫刻家の浅野孟府です。阪本一房と浅野孟府を取り巻く昭和初期の洋風人形劇の状況を交えながら二人の関係を紹介します。

博物館令和4年度春季特別展関連イベント紙芝居上演
柿本香苗氏・高鳥公子氏(元出口座座員)

令和4年度(2022年度)春季特別展「出口座と阪本一房-現代人形劇の継承と発展-」の
関連イベントとして実施した元出口座座員による紙芝居の上演です。
演目は「新田の蛇まくら」「ゆきむし」「月の光でさらさっしゃい」など、ほかにも対談「元座員、阪本一房を語る」



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