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岸部地域 モデルコース徒歩6km


JR岸辺駅→天津神社吹田操車場跡→風災記念塔(岸部第一小学校内)→六観音・六地蔵名次宮→吉志部神社参道→吉志部神社吉志部瓦窯跡吉志部火葬墓・吹田市立博物館・34号須恵器窯跡吉志部古墳釈迦ケ池七尾瓦窯跡大光寺→JR岸辺駅


●吹田須恵器窯跡群
●吉志部遺跡
●旧吉志部東村の景観
周辺地図


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●吉志部神社【吉志部神社本殿 国指定重要文化財】(岸部北4-18) 
 江戸時代には吉志部5カ村の産土神として祀られていました。馬場と呼ぶ神社参道は、亀岡街道から始まり松並木の中を一直線に約300m北上して境内に達し、神門・拝殿・本殿へと導き、昔ながらの吉志部神社の景観をよく伝えています。また、この参道は島下郡条里の方位に一致するといわれ、条里と関連があると考えられます。現本殿は慶長15(1610)年の吉志氏再建とあり、檜皮葺七間社流造です。屋根には千鳥破風と軒唐破風を付け、外部の柱などの材には華麗な彩色が残ります。この七間社流造の本殿は、大阪府下で唯一のもので、類例が少ない七間社を装飾性豊かにまとめている神社本殿として高い評価があり、重要文化財に指定されています。大正期に拝殿・幣殿などが、天保4(1833)年に建てられた本殿覆屋に建て継がれて一体化し、現在の覆屋と拝殿の姿になりました。本殿前に元禄10(1697)年の年号を彫る燈籠が床に囲まれるように建っているのは、元々本殿と拝殿は独立して建ち、その間に燈籠が据えられていた名残です。その拝殿は中央一間を通路とする割り拝殿と呼ばれる形式のものであったと考えられ、現在の神門が拝殿から転用されたと推測されます。
 また、吉志部神社で行われる秋祭りで注目されるものにどんじ祭があります。この祭りは岸部の小路・東・南の3地区から供え物(しら蒸し、小判餅、お菓子)がなされ、祭りを行う当番の家ではしめ縄が張られ、幟が立てられ、供え物が調えられます。小路では特に4人の稚児(女児)がしめ縄の帯を締め、尾のついた草履をはき、サンドラという輪を頭に乗せるといういでたちで、行列に加わり、供え物を神前に奉納します。これらは、宮座の古式を残すものと考えられ、吹田の神社祭礼の特質を考えるうえで重要な祭りです。
 
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●吉志部古墳(紫金山公園内) 
 墳丘の大半は流出し、石室も半壊して古墳の旧状は失われていますが、横穴式石室が現存する市内唯一の古墳です。正確な規模は明らかではありませんが、径 9〜10mの規模の円墳と考えられ、石室は現存部分は長さ 3.3m、幅 1.1m、高さ 0.6mです。出土した須恵器等から構築時期は7世紀初頭と考えられ、当地の有力者の墓と考えられます。
 
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●吹田34号須恵器窯跡(紫金山公園内)
 吉志部神社境内地東方に所在する吹田34号須恵器窯跡は現在地の西方約1kmの地点(佐井寺北バス停付近)で発掘調査され、昭和56年にこの地へ移築されたものです。窯の上方はすでに削平されていましたが、天井部の一部が残り現存長 10.85m、最大幅1.84m、床面の傾斜が平均21゜の穴窯です。この窯が操業していた時期は7世紀初めで、市内では新しい時期の窯の一つです。
 
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●吹田須恵器窯跡群
 須恵器の製作技術は朝鮮半島から九州・瀬戸内沿いに近畿地方に伝えられたと考えられ、千里丘陵では古墳時代中期(5世紀頃)に須恵器生産が始まりました。千里丘陵は谷が入り組んだ低い丘陵で、焼き物作りに適した粘土と緩やかな傾斜地、薪等の燃料に恵まれていました。6世紀になって操業規模が大きくなり、南北3km、東西 1.5kmの範囲に7世紀中頃まで約60基の窯が構築されました。窯は平野側から谷の奥の方へ順次築かれ、その周辺の燃料の薪がなくなると、東側の別の谷にさらに新たに築かれ、全体的に窯の分布は東へ、丘陵の奥へと展開していきました。
 
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●吉志部瓦窯跡【国指定史跡】(紫金山公園内)
 延暦13(794)年に桓武天皇が着手した平安京造営当初の瓦を生産するために吉志部瓦窯の操業が開始されました。調査では平窯9基、登窯4基の計13基の窯跡の存在が明らかにされるとともに、その内、平窯2基、登窯2基及び平窯群の背後を走る排水溝の発掘調査が実施されました。瓦窯跡は標高40mの東西に走る洪積丘陵の南斜面に2段に規則的に配列され、下部の標高27mラインにほぼ同一の構造の平窯9基、上部の標高37mラインに登窯4基がほぼ等間隔に計画的に配置されているものと考えられます。昭和46年6月に国の史跡に指定されました。
 
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●吉志部火葬墓(紫金山公園内) 
 吉志部神社本殿の西方約100m、標高30mの南斜面で平安時代初めの須恵器の壷が発見されました。この壷は高さ28.0cm、胴部最大径29.4cmで、中には火葬骨が納められた蔵骨器でした。付近の状況から、上部幅 1.2m、深さ 1.0mの土坑状のものに埋納されていたものと考えられ、土坑内には焼土と黒色灰土がみられたといいます。この墓の主は、この地に関係した僧侶あるいは有力者と考えられます。
 
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●釈迦ケ池(岸部北4) 
 釈迦ケ池の築造年代については不明ですが、『醍醐雑事記』巻5の承平7(937)年に吉志庄に池が3か所あるとの記載があり、釈迦ケ池がこれに含まれているとすれば、かなり古いものとなります。池の面積は最大で約8ヘクタ−ルあったといわれ、用水の配分は吉志部郷の南村・小路村・東村の3か村の立ち会いで決められていたといいます。平安時代前期に難波の吉士の子孫である吉志俊長・俊守親子が社に祈願し、大蛇を退治したという伝説が伝わっています。また、釈迦ケ池では江戸時代から昭和の初めまで網による鴨猟が盛んに行われていました。明治13(1880)年プロシア(ドイツ)皇孫ハインリッヒがお忍びで訪れ、禁猟区で鴨を撃ち、地元民とトラブルになりました。この事件は当時大きな外交問題となったということです。
 
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●七尾瓦窯跡【 国指定史跡】(岸部北4) 
七尾瓦窯跡は標高17m、比高 2.0〜 2.5mの東西に伸びる舌状台地の北斜面に焚口を向けて配列された6基の登窯と、主軸を東へ振って築かれた1基の平窯という2種の形態が異なる窯が確認されました。さらに、登窯にあっても床面の傾斜角度に差があり、違った形態の窯を築いていたという点も七尾瓦窯跡の特徴です。出土の瓦から、神亀3(726)年に聖武天皇が再整備に着手した後期難波宮の瓦が生産された瓦窯であることが明らかとなりました。昭和53年 3月に国の史跡に指定されました。
 
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●吉志部遺跡(岸部北1-4) 
 紫金山の南西約400mの地点、府立吹田高校の北東で、多くの石器が発見されています。石器は大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出するサヌカイト製で、旧石器時代のナイフ形石器等、縄文時代草創期の有舌尖頭器、縄文時代の石鏃等があります。これらの遺物は旧石器・縄文時代を考える上で重要な資料です。また、縄文時代の多量の石鏃が見つかっていますが、土器や住居跡等は確認されていないことから、この地は狩猟のためのキャンプ地であった可能性も考えられます。
 
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●大光寺(岸部中5-10) *仏像等は一般公開されていません。
 当寺は天文8(1539)年に創立された浄土真宗寺院です。本堂・庫裏・鐘楼・表門などが構えられた境内は、よくまとまった真宗寺院の景観がみられます。
 通りから塀越しに見える建物は聖徳太子を顕彰するために昭和11年に建てられた「太子館」です。この建物は、上層の部分を和風に造りますが、1階には欄間に回転窓を入れるなど洋風の手法が採用され、全体的に昭和初期の学校建築の構造に近い仏堂です。この建物は地元の大工によるもので、在地への和洋折衷の広がりを示しています。なお、大光寺太子館は平成14年6月25日に国の登録有形文化財となりました。
 
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●旧吉志部東村の景観(岸部中4・5) 
 大光寺門前の通りは、旧吉志部東村の中央を南北に貫く古い道です。この道の両側には塀を巡らせ長屋門を構える屋敷や草葺屋根の民家、妙見宮や地蔵の小祠があり、これらが一体となって村の歴史を感じさせてくれます。現在の景観は江戸期の図面に描かれた屋敷割や東西・南北に通る道の状況などと、大きく変わっておらず、旧吉志部東村の雰囲気がよく残されています。
 
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●六観音・六地蔵(芝田町1) 
 この石仏群は、舟形光背に6種の観音菩薩像と地蔵菩薩像をそれぞれ1体ずつ一対にして半肉彫りにし、6基建てられています。六観音は、六道それぞれに対応して姿を変え、六道を流転し続ける人々を苦しみから救済するとして信仰されました。やがて地蔵信仰のひろまりにつれ、地蔵は、六道の入口にいて亡者を六道から救済し浄土へ送り届ける菩薩として信仰されるようになり、墓地の入り口に六地蔵を建てる風習が広まったといわれます。この石仏は、元禄12(1699)年の建立年代を刻み、六観音と六地蔵を対にした珍しいもので、民間信仰のありかたとして注目されます。六観音・六地蔵は墓地の移転に伴い、岸部新町の南吉志部墓地に移されています。
 
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●天津神社(岸部南3-15) 
 江戸時代、本居宣長は著書で吉志部は難波の吉士という氏族が住んだ所か支配した地域ではないかと考察しています。吉士は吉師・吉志とも書かれ、境内の燈籠に「難波吉師霊燈」と刻むのは、こうした考えが吉志部で広く受け入れられていたからでしょう。この小祠は忍熊王(応神天皇の異母兄)という皇子の首が埋められた場所に建つという言い伝えがあります。忍熊王は、難波の吉士の祖といわれる五十狭茅宿祢と謀反を起こし、追いつめられて両者ともに瀬田川の渡場に入って死んだといわれます。忍熊王の伝承は、吉志部と難波の吉士との関係から派生して吉志部一帯に語られてきたとみられます。
 
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●吹田操車場(芝田町) 
 かつて東洋一といわれた吹田操車場は貨車操車場として大正8(1919)年に工事着手され、大正12(1923)年から業務を開始しました。昭和3(1928)年、旅客と貨物を取り扱っていた大阪駅から梅田駅が貨車駅として独立しました。それに先だつ吹田操車場の設置により、従来大阪駅に集散していた上り下りの混合貨物を吹田で線別駅順に仕分けられ、それにより貨物取り扱いの能率があがり、大阪駅・梅田駅の旅客・貨物輸送が大いに改善されたといいます。貨物取り扱い能力は1日最大約8000両であったといわれています。昭和59(1984)年にその役割を終えました。
 
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●名次宮(岸部中1-12) 
天御中主尊と刻む神名石[明治7(1874)年建立]が建つこの小祠は、かつては吉志部神社の御旅所として神輿の渡御があったといわれます。名前の由来については、小栗判官を乗せた牛車が吉志部にさしかかったとき、車を曳く縄が切れ、村人が縄をなって継いだのがこの宮の所だったことから「なつけ(き)」と呼ばれるようになったという話が伝わっています。祠の名称にかかわる伝承は、この祠が道沿いにあることから浄瑠璃や説経節の有名な語りといわれる「小栗判官」の物語が結びついて成立した伝承でないかと考えられています。この他にも、子供の夜泣きには、境内の小石を布団の下に置いて寝かせると治るという伝承があります。
 
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